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沿革史

 昭和25年に全日本しない競技連盟が結成され、昭和27年に全日本剣道連盟として創立されました。

 埼玉県におきましても、昭和25年に埼玉県撓競技連盟が発足、翌26年に埼玉県剣道撓競技連盟と改名、更に27年に埼玉県剣道連盟と改められました。

秩父は剣聖高野佐三郎生誕の地でもあり、昭和28年に秩父連盟が発足、以来、地域剣道の普及・振興に努められ全国的な大会においても活躍される数多くの剣士を育てこられた先輩の皆様には深く感謝の意を表します。

 また、平成16年の第59回国民体育大会:彩の国まごころ国体の剣道大会が秩父市文化体育センターを会場に開催され、当連盟も協力させていただき、意義深いものがありました。

平成24年度から中学校武道必修化に伴い当地域でも半数以上の中学校に剣道授業を取り入れていただきました。

令和2年明けから間もなく新型コロナウイルス感染症のニュースが出始めた当初は軽いウイルスでさほど心配ないようなことでありましたが、その後、変異型となり世界的に新型コロナウイルス感染症のまん延により日常生活が脅かされるなど一変しました。

剣道におきましても全剣連からのガイドライン及び埼剣連からも対応策などが示され、緊急事態宣言下では様々な制約が出され剣道界にも歴史に残る事態となりました。現在はワクチン接種が進められつつあるものの、もう少し時間がかかるものと思われます。

このような時こそ「剣道の理念」と「剣道修練の心構え」を前提として精進するとともに、青少年の指導に努めて参る所存です。

今後におきましても先達の築きあげてこられました、栄光と伝統を汚すことのないように次世代に継承できればと考えます。

本沿革史の作成にあたりご指導・ご協力をいただきました方々に衷心から御礼を申し上げるとともに、一日でも早く新型コロナウイルス感染症が終息することを願いまして挨拶とさせていただきます。

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○秩父と剣道

 秩父には古来より甲源一刀流と小野派一刀流の剣道二流派があり、剣道と縁の深い土地柄である。秩父の近代剣道を語るとき、明治大正昭和と三代にわたり 剣名を全国に轟かせた剣聖と仰がれた高野佐三郎先生とその明信館道場を抜きにして語ることはできない。戦後いち早く剣道が復興できたのも、そんな土壌に育まれてきた剣道愛好の士が多数存在したからに他ならない。

 

小野派一刀流高野苗正道場は、元は秩父神社境内にあった。大正の中期に宮側町へ移され、秩父唯一の道場として栄えていた。昭和天皇の即位を祝し、宮中済寧館で御大礼奉祝天覧武道大会が催された。剣道の審判長を仰せつかった高野佐三郎範士は、この光栄を後世に遺し剣道奨励のためにと昭和5年今宮神社宮司塩谷啓山等の発起により、明信館道場の建設をみた。まことに立派な道場で床の見事なことは他に類をみないところである。道場主として高野泰正教士が迎えられ、戦時中も子弟の養成に努められた。戦後、佐三郎範士は,生地秩父市から鎌倉の弘正範士の宅に移り昭和25年12月30日、89歳をもって亡くなられた。

 

また、泰正教士も後を追うかの如く、同26年3月16日、64歳にて他界された。ご両人とも剣道の復興を見ずに亡くなられたことは惜しい限りである。

 

終戦によって剣道は厳しく禁止された。学校はもちろん、いっさいどこでもまかりならぬと明治初期同様の運命となった。しかし、世相の落ち着きとともに剣道を熱望する人達により剣道復興が叫ばれ始めた。中央においてもGHQへの運動が活発になって表れてきた。ここにおいて、「しない競技」が生まれ、結局剣道への統一ができ、28年頃から社会体育として剣道が生まれるようになった。

 戦後、秩父においても剣道の復興を心に念じ、その先鋒になられた方々は秩父農工高校の南済教諭、内田和助、酒井塩太等の先輩諸氏であった。秩父神社境内等で26年頃から、しまい込んでおいた防具を出して稽古を始めた。若い高田繁、飯島重裕たちも稽古場所が欲しいということになり、明信館開放の動きが始まった。道場の持ち主は高野泰正教士の未亡人キミ氏である。戦後ダンスホールの会場にも利用されていたが、キミ氏の了解を得て本来の剣道場として借用することができた。

 

かくして、剣士も集まり始め明信本館剣友会が自然の形で誕生された。運営はみんなの話し合いで進められたが、会長内田和助、総務役酒井塩太等大変な苦労をされた。時には稽古に集まるもの3,4名という淋しさも切り抜け、今日の基盤を築き上げた。明信館使用も借用のため種々困難な問題点もあったが40年頃、明るい見通しがつき、秩父市へ移管され剣道場専用の場となったことは有り難いことであった。剣友会もますます隆盛となり、火木土の夜、年中無休で稽古に励んでいる。

 

剣友会の年配者の大半は戦前戦中において、明信館主泰正教士の教えを受けた人びとである。なお古い方には佐三郎範士の教えを受けた人もある。剣聖佐三郎範士を生んだことは秩父剣士の誇りであり、両神の甲源一刀流とともに、秩父が武道の誉れ高い由縁である。

 後輩の剣士たちにも常に語り伝え、道場には佐三郎範士のお写真を掲げて士気を鼓舞している。

 

○明信館道場の新生

明信館は高野家の所有で、剣士が借家料その他維持しなければならない。脱衣場、便所も欲しい、なんとか自由に使える道場にしたいと要望が常に出されていた。

 市会議員長谷川己之吉氏(秩父剣道連盟名誉会長)にこの苦衷を訴え、明信館を秩父市で譲り受けるよう仲立ちを依頼した。ときの市議会議長小池章三氏、文教厚生委員長関田貢氏、市体協大島好一氏、秩父市長久喜文重郎氏等のご協力により、高野氏も快く了承され、市へ譲り渡された。よって、市では管理室、風呂場、脱衣場、便所等を完備し、今日の明信館道場となった。

 長谷川己之吉氏は佐三郎範士との交流も厚く、若かりし頃はよく剣をつかい、明信館道場建設や高野家のため尽くされてきた。戦後は秩父剣道連盟の初代会長に推され秩父剣友会のために尽くされた功績は大きい。昭和33年12月剣道教士の称号を授与された。

 

○秩父剣道連盟の発足

昭和28年4月、秩父神社境内において、秩父郡下大会を開催するに至り、郡下各町村の気運も高まり、この年の12月秩父剣道連盟が発足した。

 以来、秩父神社奉納の三道大会の開催運営を中心に結束し、お互いの練磨に励んできた。秩父以外で活躍する剣士多数を排出できたのも、熱意ある会員相互の活動の賜物と考えらる。各地剣友会の組織化と活動の充実とあわせ、居合道部、女子部の組織を加えて現在の隆盛を保つことが可能となっている。

 最近の新規事業として、秩父剣道連盟杯争奪剣道大会を立ち上げたが、将来的には秩父剣道祭として発展させ、さらに秩父の伝統を広く継承させたいという構想も描いている。

 

 秩父市独自の武道専用施設建設の要望が高まる中、平成2年に武道練習施設を備えた文化体育センターが竣工し、それまで秩父地方剣道のメッカであった明信館から剣士の活動場所は移動することとなった。現在、明信館は明信本館剣友会の活動拠点として、少年剣士の育成を中心に活用されている。

 戦後の剣道の再開から秩父明信本館剣友会と秩父剣道連盟は、表裏一体の活動を続けてきたが、長い間秩父市体育協会には秩父明信本館剣友会が参加団体として登録されてきた。秩父市体育協会と秩父郡体育協会の再編により秩父市外の会員登録が可能となり、平成の初期に市町村合併と機を同じくして秩父剣道連盟が登録団体となった。これにより、小鹿野剣道連盟を除く秩父の広域を一つにした剣道の活動団体に改編が実現し現在に至っている。

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